前人未踏のテクニックを奔放に繰り出した革新的ギター・ウィザード
出生:1955年1月26日
出身地:アメリカ カリフォルニア州パサデナ
ジャンル:ロック、HR/HM
活動バンド:VAN HALEN
主な使用ギター:クレイマー・カスタム・モデル、ミュージックマン・シグネチュア・モデル、EVH・ウィルフガング、他
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Van Halen/VAN HALEN(’78年)
ギター・インスト「Eruption」を筆頭に、超人的ギター・プレイで革命を起こしたデビュー作。エディーが作り出すリフ、ソロ、サウンド、すべてが極上!
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略歴
ロック・ギター奏法のスタンダードを塗り替えたという意味では、’78年のエドワード(エディー)・ヴァン・ヘイレンの登場はジミ・ヘンドリックス以来の革命的出来事であったと言っても過言ではないだろう。
オランダ人の父ヤン・ヴァン・ヘイレンと、インドネシア人の母ユージニアの間に生まれたエディーは、クラリネットとサックスのプロ奏者だったヤンの勧めで、7歳から兄アレックス(dr)と共にクラシック・ピアノのレッスンを受け始める。10歳の時に家族と共にアメリカへ移住してからは、彼の趣味はロックへと移行。12歳の頃には両親から借りた120ドルでドラムを購入するが、借りた金を返すための新聞配達をしている間にアレックスがドラムを叩くようになり、エディーは先にアレックスが始めていたギターに転向している。
エリック・クラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、ジミ・ヘンドリックスといったギタリストを参考にしながら、アレックスとセッションを続け、16歳の時にヴァン・ヘイレンの母体となるバンド:マンモスを結成。地元パサディナで人気を博した彼等は、人気を二分していたレッドボール・ジェッツのシンガー:デイヴィッド・リー・ロスを引き抜き、さらに同じ学校にいたマイケル・アンソニー(b)を加えた’75年、ヴァン・ヘイレンのオリジナル・ラインナップが完成する。
そして、KISSのジーン・シモンズから資金援助を受けてデモ・テープを製作、名匠テッド・テンプルマンのプロデュースの下、’78年『Van Halen』でアルバムデビューを果たす。
このデビュー作は150万枚を超すセールスを記録しており、快活なハード・ロック・サウンドが好評となったわけだが、その中でもエディーのあまりにも斬新なプレイが、当時のロックの常識を変えた。今でこそ当たり前のテクニックではあるものの、当時はどうやって弾いているのかすら分からなかったタッピング技がギター・キッズの話題をさらい、“ブラウン・サウンド”と呼ばれる極上なトーンも、同業者の羨望の的となった。
日本でもその人気は爆発。当時はフュージョン全盛期であったが、同年6月の初来日公演において、自作の鮮烈なペイントのコンポ-ネント・ギターを弾きまくるエディーは、久々に現れたロック・ギター・ヒーローであった。この後、エディーはアルバムを出す度に新しいスキルを開発し続け、リスナーにとってはそれを聴いて確認する事が毎回の楽しみとなっていた。
ギター・オリエンテッドなフィールドにおけるロック・ファンの間では既に大物の風格を漂わせていたヴァン・ヘイレンだが、本当の意味での世界的なブレイクを果たしたのは、5作目『1984』(’83年)によってメガ・ヒットを飛ばしてからだ。同作からのシングル曲「Jump」は5週連続No.1を記録し、いよいよヴァン・ヘイレンはメジャーという勲章を得たのである。
ちなみにアルバム・チャートでの成績は全米最高位2位だった。この時、長きに渡って1位に居座り続け、ヴァン・ヘイレンの首位戴冠を阻止したのはマイケル・ジャクソンの『Thriller』(’82年)だったのだが、何と同作収録の「Beat It」にてフラッシーなソロを弾いていたのは、他ならぬエディーだった。
’85年にデイヴ脱退を受けサミー・ヘイガーが加入し、『5150』(’86年)で遂にアルバム全米1位の記録を達成。以降、押しも押されぬトップ・アクトの座に君臨し続けたヴァン・ヘイレンだが、’96年のヘイガー脱退~デイヴ一時的復帰~ゲイリー・シェローン加入が波乱のスタートだった。
’99年にはゲイリーも脱退。こういった度重なるシンガーの交代で’90年代末からはバンドが停滞し、’01年にエディーがガンに冒されていた事も発表される等、混乱した状況がファンをやきもきさせている。
’04年にサミーが再加入して新曲発表~ツアー開始というイベントがあったものの、結局は分裂という結末に終わり、とうとうマイケルも脱退してしまった。そして’07年以降、復帰したデイヴ、エディーの息子ウォルフガング(b)を迎えたヴァン・ヘイレンは、実に久々の活動再開に向け、いよいよ動き出している模様だ。
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